HV2

第四話

私は教室に着いて鞄と胴着を入れたスポーツバッグを持った。

「楠本さんっ」と言う、キンキンした声が聞こえた時、ドキッと心臓が跳ねた。

またかよ、とげんなりする。さっきもこの声の主に、視聴覚室の棚の整理をする、という訳の分からない用事を言いつけられた。整理をしたのは、私一人だ。そのせいで、すでに部活に遅れている。

「これから部活なの?」

「──はい」

私は、生徒達によく聞こえるように鍛えられた、キンキン声の里中先生を視線に捕らえて返事した。先生は黒板側の教室の前の出入り口から二歩ほど中に入った所で、窓際の一番後ろの自分の席にいる私を見ていた。

二年A組、私の今の担任の里中江梨花先生は、見たところ三十代半ばの、痩せぎすの女性教師だ。担当は国語。

菜々美ちゃんは、あの担任はいつもいつも生理二日目か、万年月経前症候群か、すでに更年期障害だ、と言い切った。とにかく、いつもピリピリしている。

生徒の長所を伸ばすより、短所を叩きなおすのが自分の使命だと信じて疑わないように見える。私の不思議な身体のことも、知っているはずだ。でもそのことに触れたことは一度もない。

ただ、なぜかクラスの中でも私の事を、特に意識して嫌っているように感じた。何かにつけて、色々用事を言いつける。日直に当たる日など、いきなりプリントやノート運びが増えたりする。

実際、お前また何か運んでんのか? と何人もの男子に訊かれたくらいだ。

「悪いんだけど、昨日集めたノートのチェックが終わったから、職員室からここまで運んどいてもらえる? 私は今から会議なの」〝悪い〟などと一ミクロンも思っていない顔で先生は言った。

「は、あ」と私は答えた。嫌だと思ってることが見え見えになってしまった。

「部活は……遅れても大丈夫なんでしょ? 何しろあなたは、特別なんだから」

グッと唇を閉じて、視線を先生から床に移した。里中先生は、ふん、と一つ息を吐くと「髪の毛、ずいぶん伸びてるわね」と言って一歩前に出た。

「この学校は校風が自由な方だけど、あなたは気をつけた方がいいんじゃないかしら。女だとバレたら困るんでしょ? あ、それとも──」

コツ、コツ、と黒いパンプスの音を、私達の他に誰もいなくなった教室に響かせて、先生は私に近づいてきた。目の下に隈のある精気のない顔が、私の前方一メートルの地点で止まった。

「わざと伸ばしてるの? やっぱり女の子として見られたくなった? 毎日楽しいでしょうね。女子からも、男子からも騒がれて。ねぇあなた、本当は……それが狙いで転校してきたんじゃないの?」

ズシン、と心臓が重くなった気がした。里中先生は、今までここまであからさまに私が普通の生徒ではないことを指摘して、嫌味を言ったことはなかった。

確かに嫌がらせか、と思うような細かい用事を言いつけられたことは幾度もある。でもそれも、ただ言いつけるだけで、用事をすませればそれで終わっていた。

今は教室に二人だけだ。だからついに本音を出した、ということか──

「そんなつもり、ありません」

声が震えないように、息を殺して返事した。足元が揺らいだ気がして、足と手に力を入れる。

「わざわざ男子の制服なんか着なくても、充分人目を引く顔をしているのに……」

私の言葉を無視して、先生は言った。……り、という囁き声の、何かの言葉の語尾だけ聞こえた。

先生はそのまま、無言で私を見下ろしている。一六五センチの私を見下ろす先生は、女にしてはかなり背が高い。痩せているから余計、長細い棒の様に見える身体だ。

気を遣えばそれなりに綺麗に見えるかもしれないのに、いつも肩あたりまで伸ばした髪を飾り気のないただのヘアゴムで一つにまとめていて、化粧もしているように見えない。

私は先生の目を直視する気力がなかったので、口元から首筋をぼんやり見つめた。買ってから数日たってしまった生肉のような色をした唇と、痩せてしわが寄って見える首筋。

まだ若いはずなのに、自分の若さを投げ出して、積極的に年を取って行くことを良しとしている。先生の周りにはそんな自暴自棄な雰囲気が渦巻いているような気がする。

「大きなお世話? でもね、誰も言わないだろうから言ってあげてるの。見えないかもしれないけど、私はこれでも心配してるのよ」

なにも言う言葉が見つからなくて黙っていた私に、また先生は話し出した。会議はどうなっているんだろう。早く行ってくれればいいのに。

「このA組は進学クラスよ。大学に行っても、男の姿でいるつもりなの? それにその次は就職。あなたは、働くってことがどういうことかわかってるのかしら」

一拍おいて、先生は横を向いた。腕を組んで私に横顔を見せたまま続ける。

「社会に出るのは、高校生をやっているのとは全然違うの。男の世界は半端じゃなく大変よ。見た目がかわいらしいから、などと言う理由で優遇されるようなことは絶対にないわ。身体が弱いからって誰も気に掛けてくれないだろうし、増してや助けてもくれないでしょうね。

立川先生やあなたの……お兄さんみたいな人はそうそう現れないわ。だから今から鍛えておいた方が後々のためになると思って、私は色々頼んでるの。どんなにくだらない仕事でも上司に命令されたら従うものなのよ。特に男社会は」

ここは会社ではないし、あんたは上司じゃない。そう思ったけど、言わなかった。

と言うより何の言葉も出てきてくれなかった。突然立て板に水のごとくつらつらと現実を突き付けられて、正直頭がついていけない状態だった。

何か答えなきゃ、と思いながら結局先生の足元をじっと眺めていた。むくんでいるのか、痩せぎすの身体にしては足首が締まってないな、と失礼なことを思った。

「その……一度」

今までの勢いが急に消えて、少し躊躇いながら先生は言った。

「お兄さんとお話させてもらえないかしら。あなたの将来についてどう思っているのか直接ご意見を訊いてみたいし……」

その言葉に、漠然とした違和感を覚えながら私は何とか答えた。

「三者面談ということですか?」

「あ……いえ、その、お兄さんと私と二人で」

兄と先生が二人で? 私を抜きにして私の将来の事を話す? なんだか変な気がする。